古多更一の論画

サブカルチャーの評論、役に立つ記事や論画を書いていきます。

❰拡張現実と『過剰虚構』の時代 ❱

f:id:kashmia:20180103011001j:image

拡張現実ってその通りだと思うけど、逆に仮想現実のリトルピープル版が大量生産されていると感じる、現実が拡張するなら、過剰な仮想現実が求められている。

(拡張現実とは、2010年代からの宇野常寛

提唱した時代区分。社会学者の見田氏の区分を参照している。90年代は、オウムやエヴァに代表される仮想の現実を作り上げ、大きな物語、絶対的な正義などを志向する空気があったらしい。宇野常寛は2010年からは、仮想の現実を作るのではなく、現実を拡張するのが現代の虚構の役割だと提唱する。アニメの聖地巡礼ポケモンGOGoogle・Earthは虚構に潜らずに、現実を異化させる拡張現実だ。)

  

 話を戻すと、拡張現実が現代の虚構の役割だと仮定しても、虚構自体に潜る仮想現実的な現象は再強化、再帰している。

例えば、偽史的な政治や経済観による考えだ。自分の信じたい物語だけに過剰に潜っている現象はネット上でよく見かける。

ただ、90年代は、大きな物語を作るために仮想現実をしていたけど、エヴァやオウムみたいなね、

  

 だけど、今の再帰した仮想現実は、小さな物語、『大きな物語はもう成立しない』っていう環境の上の再帰であり、仮想現実ですら無いと思う、拡張現実の優勢が対として生まれた❰過剰虚構❱、過剰すぎるからこそ仮想の現実ですらないのが、90年代の想像力との違い。例えば魔法科の劣等生までになると、もはや仮想の現実という意識すらない。

 

経済や政治に運びる偽史的想像力は前からあるけど、もはや仮想な現実ですらないと思う。大きな物語の仮想じゃなくて、小さな物語の仮想は、もはや仮想現実とは言いがたい。

 

拡張現実の時代だと言うのはよく分かるんだけど、今のSNSやドラマ、アニメを見ていると、拡張現実に対する過剰な対比的現象が起きている気がする。

 

見田氏や宇野さんの本を改めて読んで、

今と照らし合わせて感じた感想。

 純粋に大きな物語があった時代のアイロニーを小さな物語だらけな時代に持ってきたら、厳密に効果が違うってことかな。

 

拡張現実のユートピアな想像力の一方で、

ディスピアな過剰虚構が運びっている。

過剰虚構を風刺するメタ作品が

カオスチャイルド欅坂46だと思う。

欅坂46はアイドルなのに、

ファンと自分自身、環境をメタる

風刺性がギッシリつまっているから、

カオスチャイルドはもはや、

読者=主人公もセカイ系

美少女もSNS

全てのディストピアでもある本質を

描いてしまっているから。