古多更一の論画

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過去編 『偽善=偽悪、オディプスチャイルド、美少女の工場』


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 まあそもそも今の社会というものは、
いくらピュシス自然界のカオスとか
宮崎駿的な自然界に対する要求、
文化左翼的な何か平和9条を取り戻せ
という空虚な回転している駒のような
何かそういう平和やコトバは空しく、
蒸気になってしまうかんじで、
もはや頭の中の妄想にすぎないのが現代。

 

 どういうことか。ようするに、
偽善を希求することがパッケージ化していて、もはや全て商品、言ってしまえば、
彼らの否定する資本主義や偽悪な動物の
部分集合、一部に帰属してしまう。
即物的な斬新的な道具的な
一種のインストロメンタル、
商品として彼らの発言は全て回収されている。つまり、むしろインテリキャラは
自分たちが上にいて商品でありながら、
偽善的に発言するという、

承認欲求を満たす、お互いに誉め合う
回転する駒のような一種の袋小路。
いや自分たちが悪だったんではないか、
一種回って実は前に進んでいるようで
円を描いていたようなとりどめのない
意味のない虚無。
茶番だったという連鎖、
まさにカオスチャイルド

言わざるおえません。

 

 オディプスチャイルド的な社会、
じゃあ偽悪的に、偽善が茶番だと分かった、
動物的に資本主義で他者を潰し巻くって、
開き直れば良いのだろうか?
何か屁理屈を言いまくって、合理主義に
世の中を利用しまくればよいのだろうか?
即物的に自分を満たせばよいのだろうか?

 

 一方で、偽悪も堂々巡り。
たとえば、前に進もう進もうとする会社人。
日本のトップに君臨したとしよう。
しかし、海外においては、
上では無いかもしれない。
じゃあ、海外、西洋の上になろうよ。
そしたら、西洋の更に先にまだまだ、
新たな上がいるかもしれない。
それに若い人が流行が、
上の貴方を塗り替えるかもしれない。
主と奴、シュシュトとクネヒトの
終わりなき差異化ゲームの連鎖。
だめ押しに追加すると、
職におけるピラミッドを話したが、
そこにおける家族や精神や

他のピラミッドの連鎖もあるという現実。

全てを走り回れるわけがない。

 

 もはや、

全てはゲームという茶番ではないか?
思い出してほしい。小学校は運動、中学校は勉強がイチバンかもしれない。では、大学ではコミュニケーション能力かもしれない。更には、社会人初期はコネ?では中期では、時代の感性を見抜く野性的な力。次は何?老人になったら、死に向き合う哲学書を読む!? 老後のパッケージング。
全て美術館での出来事だったかもしれない。

 

 そして僕たちはシュミラークルの都市を、
元々自然科学と違って、社会科学や人文科学、私たちの原理は、元々嘘で出来ていると
ソシュールやヴィシュトゲンシュタイン、
それに続く構造主義者、ポスト構造主義者は
看破した。主観的な合理性にすぎないのだ、らしい。
 
 産み出された虚構が虚構を生み、
その虚構がまた更に虚構を生み出す、
堂々巡りが現代。
指摘しないわけにはいきません。

 

 そういう社会は夢が夢を作り出す。
それは連立して続く虚構の工場、
つまり、消費社会→広告社会→情報社会
そして、物理的な拡張現実の落合陽一であること。中心がないから、前に前に進むこと自体を目的にする、目的なき目的。
工場の夢は夢じゃなくなるときに、
新しい夢を出し、茶化し続けるんです。
たとえば、モテモテの美少女がいると
マスメディアが作り出す。
しかし、それ自体が不確かだから、
いつか人は飽きたり逆に疑う。
そうすると、今度は新しい美少女を
設定する。ウソをバレないように、
新しいウソを塗りつぶす。
また、しかし新しい美少女は飽きられ、
また新しい美少女探しに人は邁進する。
終わりなき美少女の無限工場。
答えを先送りにすると、
ウソが現実になる。
 
 今回は過去を即興的にまとめた。
要約というやつです。行動に値する
これらの解決策は第三回目で語りましょう。